天災レベルの猛暑が続いている。ほんの5,6年くらい前でももう幾分かはマシだった気がする。私が子どもだった頃は真夏でも窓を開けて扇風機を回せば暑さを凌げていたけれど、今は文字通り殺人行為だ。
天災といえば、猛暑やら豪雨やらが立て続きにあってもう遠い記憶になりつつあるが実はまだ1ヶ月くらいしか経っていない関西の大地震。大阪北部が震源地だったあれは、私の実家のあたりを直撃していた。
上京するまでの20年弱を大阪で暮らしていて、南海トラフトの危険性は繰り返し聞いていたものの実は北摂では震度4以上の地震を経験したことがなかったので、朝「大阪で地震だよ!」と夫に起こされてもテレビの速報を見るまでは「和歌山とか大阪南部あたりの話だろう」と思っていた。テロップで実家の周辺が震度6というのを見て本当に驚いた。
すぐに「大丈夫?」と母にLINEをしたが既読がつかない。家族のグループLINEで九州に住む弟からも安否確認が入るが母からの返事がない。テレビの中では余震の警告と交通機関がストップしていることが伝えられていて、ばっくり割れた道路や避難所として映る小学校は毎日のように前を通っていた場所だった。携帯に電話を何度かかけたが繋がらず、数年ぶりに実家の固定電話にも電話したが留守電になる。
通勤前のこの時間であればほぼ即レスのはずの母からの既読がつかず、私はめちゃくちゃ動揺した。まだ死者や怪我人の情報は出ていないけど、家で何かの下敷きになっているんじゃないか、二次災害に巻き込まれていたらどうしようと半泣きになった。自分の出勤準備もままならないほど取り乱し、とりあえず弟と連絡を取り合い、夫に宥められている間に母から連絡が入った。ほんの20分ほどのことだったけど、ものすごく長く感じた。
隣の市に住む祖母から家具が倒れて家から出られなくなったと連絡があったため向かっている、との話だった。信号が全て止まり警官の手信号に従って運転しているとのこと。
とりあえず母と祖母が無事であったことに安堵したが送られてきた室内の写真を見てぞっとした。祖母が普段寝ている布団のある位置に真っ直ぐにタンスが倒れていた。地震発生があと2,3時間早ければ命に関わっていたかもしれない。洗面所の洗面台が台ごと浮き上がってしまっている様子も衝撃だった。Facebookで一斉に投稿された地元の友人たちの様子も生々しい。特に上層階に住んでいる子の家の惨状は凄まじかった。
身体に害が無かったのならなんとでもなるし、最近の水害などのように全てを流されてしまうことに比べれば物が散乱したりガラスが割れたりで済んだというのは幸運にさえ思えるけど、災害は災害だ。
人生どこでどんな災難に巻き込まれるかわからないと身をもって知っていたつもりだけど、平和ボケしていたと思う。震災発生当日も出勤してから気が気では無くしょっちゅうニュースをチェックしていたけど周囲はいつも通りでもどかしかった。普段の自分も含めて、多くの人にとって遠くの災害はやはりどこか他人事で、身近に感じるのは難しいものだ。地震のほんの数週後には豪雨でやっと工事が入った祖母の家も再び被害に遭い、天気って本当に空気を読んでくれないんだよなあと思ったりした。
母が無事で良かった。有事の時に親のことを一緒に心配できる兄弟がいて良かった。私が冷静でない時に支えてくれる夫がいて良かった。母も祖母もとても元気だけれど、こういう時に近くに若い身内がいないこと、離れて一人にしていることのリスクを改めて感じた。いつ突然の別れが来るかわからないのだから、大事な人には会いたいと思った時に会わなければ、なんて当たり前のことも思った。この夏は帰省の予定はなかったけど、部屋の片付けも兼ねて週末ちょっと帰ることにした。久しぶりに夫の実家にも行く予定。