韓国版モーツァルト!の配信を観ました。愛するウンテさんヴォルフ回。
韓国で10周年を迎えたミュージカル「モーツァルト!」
— 韓流ぴあ ミュージカル (@kmusicalpia) 2020年7月17日
日本配信決定!
8月9日(日)~11日(火) PIA LIVE STREAM, uP!!!
チケット販売 : 7月18日(土)10:00~
詳細は公式ホームページにて https://t.co/E4a1rhf9rZ#Kミュージカル #モーツァルト #キムジュンス #パクウンテ #パクガンヒョン pic.twitter.com/ae5YyEc5yj
韓国のM!ももう10周年。2012年にウンテさん・ジュンスのヴォルフを観にソウルに行ったなあ…。先日の記念コンサート配信も楽しく拝見しましたが、今回は役替わりも含めて3パターン配信してくれるという夢のような企画。しかも日本語字幕付き。ありがとうございますありがとうございます。アーカイブ配信もしてくれたら他の2バージョンも買いたいです!!!韓流ぴあ様!!!
自宅で幕間以外はネットもシャットアウトして集中して、久しぶりに「観劇」体験をして本当に楽しかったです。芝居の感想を書くこと自体ものすごく久しぶりに感じる。
Mozart!10周年 配信 8.11
ヴォルフガング・モーツァルト:パク・ウンテ
コンスタンツェ:ヘナ
コロレド:ソン・ジュノ
レオポルト:ユン・ヨンスク
ヴァルトシュテッテン男爵夫人:シン・ヨンスク
オーバーチュアの赤いコートを模した緞帳にM!が始まる期待でどきどき。赤いコート=才能の象徴として全編通して小道具によく使われていたな。
パク・ウンテさんの芝居を観るたびに「その芝居で伝えるべきことは全て脚本に書いてある」という言葉を思い出す。役作りがとても本質的で、何度も観ている演目なのにウンテさんで観ると「こういう芝居だったのか」「こういう役だったのか」と気付かされることが多い。(私は彼のルキーニでその感覚にハマってしまった)また今回の配信は字幕が非常にわかりやすくて、台詞も歌詞もストレートに受け止めて考えることができた。
他の2人のヴォルフを観られなかったので今年の演出の話なのか、役作りの影響なのかわからないけど…今回のM!の感想は「M!ってこんんんなにしんどい親子の話だったっけ!?」だった。私の中でM!はアマデウスとヴォルフガング、「才能とそれに飲み込まれないようにもがく人間」の物語で、「才能ある人間は平凡に生きられない、他の全てを引き換えにしなければならない」という感想を持つ話だったのに、今回は全編通してレオポルトとヴォルフが軸にあり、「自分の夢を息子に託した父親の呪いとそれが引き起こした愛着障害」の話に見えた。ヴォルフが一生をかけて「ありのままの僕を愛してほしい」と望み続けて、叶わなかった話。アマデだけが愛された話。一番愛されたかった人に愛されなかった子どもは、他の何を得ても満たされないのだという話。
M!って正直レオポルトの出番が無駄に多くない?なんて思っていたのだけど(すみません)いやいや、メインがレオポルトとヴォルフの話じゃないかと。そしてヴォルフのことも、貴族に対しては不躾で不遜だったり、かと思えば急に自信がなくなったり、いろんなものに対して何度も「もう自由だ、自立するぞ!」と宣言しているのに最後まで父親のことをうじうじ気にしていたり、メンタルが不安定な子だなあと思っていたけど、これも父親との関係を軸に考えると説明がつくのか、という驚き。なぜ自分と一心同体だったアマデを悪魔と呼ぶのか、彼が最後まで得られなかった「成功でも愛でもない何か」とは何だったのか、何十回と観てきたM!がやっと一本の線で繋がって理解できた気がした。
レオポルトの毒親ぶり
1幕冒頭、奇跡の子からレオポルトの自己愛は炸裂している。自分が育てた、自分が作った天才が誇らしくて自慢したくてたまらない。「大人になったら凡人になってしまう、どうか子どものままでいてくれ」とまで言葉にしてしまっているので、はっきり言って毒親である。そしてそれを最初から見抜いている男爵夫人。才能の箱を父親に渡そうとするアマデとそれは彼だけの物だと止める夫人。この「あなただけの大切な箱」を迷わず父親に差し出そうとするヴォルフ、という構図が2幕で2人が最後に言い争いをする場面でも使われていたのが憎い演出だった。
「赤いコート」で父と言い争った後、「僕こそ音楽」の前に入る影を逃れてのメロディ。父が愛しているのはアマデ(=才能、父が自分の手柄だと信じているもの)だけで、ヴォルフガング自身ではないことの暗示のように取れる。それでもずっと「パパがきっと喜んでくれる」と父親を見ている、世間知らずでモーツァルト家の価値観の中に生きているヴォルフ。靴紐も結べない奴が!と言いつつ、お前はまだ幼すぎる、お前には私が必要だと息子を成長させたくない父親。「「私たちは家族だから」」と歌声が重なるの、完全に共依存関係だ。そして市場のナンネールもなかなか、弟に自分の未来をどっぷり預けてしまっている感じ。母親が実存しているのもあって「家族」のリアルさが強く、全員が一番年若いヴォルフに命運を賭けている不健全さが際立つモーツァルト一家。
ヴォルフが母親とパリに行ってから、レオポルトが部屋に息子の幼少期の服を飾っているのもかなり痛い。日本版のように手紙を読みながら歌うのではなく子ども時代の服やバイオリンを持って語りかける演出、彼が過去しか見ていないのがわかりやすい。レオポルトにとってヴォルフは「自分は諦めた道を自分に代わって叶えてくれる希望」であり、自分の作品として自慢に思っているだけで、アマデに対してすらその人格を愛しているわけではない。うーん。グロテスク。
自立への誘い
親元を離れ都会に出てヴォルフは自覚する。父親の言っていた通り、大人になった自分は人々に求められなくなってしまった。(これは実のところ勘違いだし、レオポルトのかけた呪いでしかない)凡人の自分にも家族がいるから大丈夫と思った矢先の母の死。そして「残酷な人生」。自分にとっては世界の終わりのような日なのに、世の中はいつもと同じように流れていく。自分や自分の感情は世界にとって取るに足らないものであるとやっと気付き、若さゆえに無条件に信じていた成功、世界、価値観が崩れていく。
「残酷な人生」で無邪気な少年時代と別れ→後悔に苛まれているところでシカネーダーと出会い、貴族には飽きられたが民衆に受け入れられる!と初めて父と違う価値観を持ち(「ちょっぴりオツムに〜」)→自立を促す男爵夫人が登場して「星から降る金」という流れがとても綺麗で、ヴォルフガングの遅れてやってきた自立心の芽生えがとてもわかりやすかった。彼は彼なりに世界に絶望し、そこから立ち上がって希望を探し、父と分かち合いたいと願ったのに、父はヴォルフが自分で考えて生きること自体を否定し旅立つことも許さなかった。
私のイメージではヴァルトシュテッテン男爵夫人ってちょっと腹黒さがあるというか、彼女こそ終始一貫してヴォルフの才能=アマデに価値を見出していて、ヴォルフを利用しているのではとすら思うキャラクターだったのだけど、今回のM!ではレオポルトが毒親すぎて、男爵夫人はそれをブロックしてくれるものすごくまともな庇護者にしか見えない。星金は歌詞がストレートにきて何回聞いても泣く。「厳しい世の中 あなたが生きる意味 知りたければ独りで旅立たなければならない」ヨンスクさんの歌、しっとり響くなあ…。しかし男爵夫人がこれだけ真摯に語りかけてくれるのに、レオポルトの結論は「誰も私の代わりはつとまらない」なのである…おおん…。
救いとなるコンスタンツェ
モーツァルト一家がヴォルフの才能に依存し彼の人格を浸食するほど、ウェーバー一家の気安さ、堕落ぶりが逆にヴォルフを楽にする、というのも理解できる。僕はつまらない男だ、と言いながら自分として生きることを諦めたくないヴォルフに「あなたは特別な人」「音楽のことはわからないけど、あなたが人と違うのはわかる」と言ってくれるコンスタンツェの存在がどれほど救いになったことか。ずっとありのままの自分を愛して欲しかったヴォルフにとって、欲しかった言葉をくれた初めての人。コンスとの場面はいつもアマデが全力でヴォルフを妨害しているけど、やっぱり「音楽がなくても愛してくれる人」が現れるのは彼の才能にとってはマイナス、ということなのかな…。
ヘナさんのコンスはとても賢いわけではないけど、物事の本質を見ている女性という感じがした。「ダンスはやめられない」で自堕落なキャラクターを歌ってはいるけど、ヴォルフを愛し、彼に足りない部分を補おうと必死に戦っている。自己肯定したいのにできないヴォルフにとってコンスタンツェが本当に救いの存在なのだな、とわかる。2幕の結婚のくだりとかとっても可愛い。純愛だ。
「影」を逃れて
ナンネールとレオポルトのデュエット。堕落する息子は自分と同じく失敗した人間だ、と信じている父。息子を応援しているようで全く信じていないの、やっぱり毒親だな…。そして失敗しても家族が一緒ならやり直せるから戻ってこいと訴える。対してナンネはもう家族は元に戻らないことを悟っている。
1幕ラストでコロレドと決別し自分は自由だ、やっと自分の人生が始まった!と晴れやかな気持ちになるのも束の間、暗い「影を逃れて」が始まることに実はこれまでちょっと違和感があった。ヴォルフの不安定さを表しているのかなとか、結局アマデにしか才能がないって意味?なんて思っていたのだけど…。これは貴族の元から去ったとしても肝心の父親とこじれた関係は何も解決していないことが影響していたんだな。人生を賭けて一番求めてきた父からの承認が得られていないから、常に不安だしコンスにどれだけ愛されていても自信が持てない。父やコロレドから認められていたのはアマデであってヴォルフではない。音楽も賞賛もいらない、良心を捨て自分の人生を生きたい。でもどうやって?そもそも自分が欲しいものは何なのか?音楽の才能以外に自分に価値があるものなんてあるのか?舞台の中心にいるのはアマデで、自分はアマデに血を与えるだけの存在なのに。「僕こそ音楽」では才能から溢れ出てくる音楽を無邪気に喜んでいたヴォルフが、「影を逃れて」では音楽以外に何もない自分、アマデのためだけに生きる自分から逃げ出したいと歌っていたのか。そしてヴォルフの中に確かにあった、才能の塊であるアマデを「影」にしてしまったのは、明らかにレオポルトだ。
成功(=愛)を求めるが…
プラター公園、ここはウィーン、友達甲斐のないやつ、などなどウィーンの人々が歌う場面は共通してウィーンの人間関係の希薄さ、簡単に手の平を返す残酷さが見え隠れしていて、その中でヴォルフのことを損得抜きに愛しているのはコンスだけだ、とわかる。ヴォルフも彼女を大事にしたいのに、音楽を優先するアマデや家族への感情に振り回されて、上手くコンスのことまでケアすることができない。でも自分が成功すればきっと父も喜んでくれる、コンスも幸せにできる、民衆も喜ぶ。みんな愛してくれる。とにかく成功したいとがむしゃらに音楽に打ち込んでしまう。
その努力は実り、皇帝陛下にも認められる成功を収めたヴォルフ。みんなに愛されて幸せになった自分を見せてやっと父に認めてもらえると思ったのに、父はもはや息子の成功を素直に喜ぶような人間ではないのであった…。「息子は眩いほど輝き、私は息子の影になった」結局はこれが父の本音で、お前はもっと謙虚であるべきだ、曲が複雑すぎる、お前を育てたのは私だ感謝を忘れるな私の言うことを聞け、お前は母を殺したナンネを不幸にした、と言いがかりのような文句をつける。というか完全に言いがかりである。じゃあどうなってたら満足なんだあんたは!!!とこっちもブチギレたいよ!男爵夫人にも「いやさすがに褒めてあげなさいよ」とたしなめられる場面でも、ヴォルフは素直にショックを受ける。か、かわいそう…!父親を繋ぎとめるために何の躊躇いもなく才能の箱を差し出すヴォルフ。完全に拒否して箱を床に置く父親。感情を露わにしないアマデが後ろで泣いている。あまりにもかわいそうで、初めてこの場面で涙が出た。
父との別れ
ヴォルフは幾つになっても父親のために全てを差し出す気持ちでいるのに(レオポルトがそう育てたのに!)、レオポルトは自己愛ゆえに最後までそれを拒み、息子を1人の人間としては認めてはくれなかった。「喜びを分かち合うために来たんだと信じていたのに 成長した姿を見せたかったのに どうして愛してくれないんだこのままの僕を」あまりにつらい。「僕の中にいる小さな子どもも僕にずっと語りかけてくる どうして愛してくれないの?」ヴォルフだってアマデを愛したかった。影だと思わず受け入れられたら、自分の才能と人格を分離せず肯定的に生きていけたのに。「天才としては生きられない 心の中にかわいいあの子をしまっておくよ もう振り返っても意味がない 自分の人生を生きる」
永遠に手に入らなかったもの
社会的に成功しても父親に決定的に拒絶されてしまい、いよいよ父とは別の道を歩かねばならないのだ、と決意した夜に見るのが「仮面舞踏会」。夢に出てくるのは生きている母、妊娠・出産したコンス、幸せな家庭生活。「才能も成功も試したが違った 壊れやすく、分け合うほど大きくなるもの 色あせやすく時に信じられない それは何か?」この曲、日本語で聞いていても「愛情でもなく才能でもなく成功でもない何か」の答えとしてレオポルトが「幸せだ」と言うのがいつも納得できなくて(笑)愛情×才能×成功=幸せではないの?と疑問だったのだけど…。「明らかに私が与えたものだがお前は捨てた、二度と手に入らないもの…幸せだ」という言葉に、これは傲慢なレオポルトが死に際に息子に見せた夢なのだろうな、と腑に落ちた。皇帝に賞賛された曲にまでケチをつけるのと同じで、レオポルトの否定に根拠や論理なんてない。自分の言う通りに生きなかった、自分を置いて1人で成功したヴォルフに「お前は幸せではない、それは父親を捨てたからだ」と呪いをかけているだけなのだ。そしてもう振り返らないと宣言したヴォルフもやはりその価値観に囚われているから、夢の最後は才能の箱に閉じ込められてしまう。
そして和解できないまま父が死ぬ。ナンネの「あなたを許さないまま父は死んだ 家族を裏切ったあなたを許さない」という歌詞の残酷さ。自分の人生を犠牲にしたと感じるナンネの気持ちもわかるけど、ヴォルフに止めを刺すには十分だ。ここでもコンスは「自分を責めないで 何もかも運命」と寄り添っているが、ヴォルフは「父の言う通りにしなかった代償を払う時が来た」と再びダークサイドに…。父の死をアマデと分かち合えると思い抱き合ったら首を絞められ、父にかけられた言葉がフラッシュバックして錯乱する。そして星金リプライズ。ああここはこういう場面だったのか…。男爵夫人が「自分のために生きていいのだ」と歌う神々しさ。涙が出る。でも1幕の星金からここに至るまで色々なことがあったのに、コンスにも出会ったし社会的にこんなに成功しているのに、ヴォルフは全く解放されていなかったのだ、ともわかり絶望は深まる。
コロレドとの関係
ここまでM!を父と息子のすれ違う物語として見ていると、最初から一貫してモーツァルトの才能を正しく理解し評価していたのは実は男爵夫人とコロレドだけだったのでは、と思えてきた。ザルツブルク時代からヴォルフガングの才能に気付き、自分のものにしたいと望み、時に妨害し時に援助してきた。彼にとってモーツァルトは神が「自分に」遣わした子。なのでレオポルトが「自分の血を引いているから」といって孫を連れてきたことにはキレる。天才とは人間が作れるものではない、神の摂理から離れた存在だと確信しているコロレドはレオポルトには全く価値を見ていない。コロレド、なかなか強火なヴォルフ担になれる素質があると思うのだが…。
ソン・ジュノさんのコロレドはかなり真面目で人生を丸ごと研究に費やしてきた、という感じがして、コミカルな場面が可愛い。トイレのくだりとかw全体的にしんどい舞台なのでコロレドとアルコ伯爵の漫才シーンが癒し…。(「漏らしたやつは黙ってろ」あれなんで知ってるのww)
コロレドとの決別シーンは男声の戦うデュエット大好きなので韓国版に追加されていて嬉しかった。今更「父親のことを思い出せ何を望んでいたか」と言われてもヴォルフには響かない。「人生を決めるのは僕だ後悔はない」
救いはあったのか?
命を削ってレクイエムを書くヴォルフ。インク切れに苛つくアマデが心臓にペンを突き刺し共に死ぬ。直前の言葉が切ない。「王子は王になったらしい 僕は何を手に入れた 金の星を探したがその光に焼き殺された すべて捧げた…」ここで星金の歌詞と繋げてくるのか!
たしかに、元々ヴォルフが金の星を探しに旅に出ようと思ったのは音楽で成功するため。それは父親に認められ愛されることを意味していた。けれど結局、成功しても父の愛は手に入らなかった。え、そう考えると本当にヴォルフの人生って…。
そしてナンネが開けた才能の箱から溢れる光、影を逃れてのコーラスのラスト…アマデを抱きしめるレオポルト。…いやいやいや、この演出、残酷過ぎない!?!?ここはヴォルフとレオポルトが抱き合うか、せめてヴォルフとアマデがひとつになる描写にしてあげてよ!結局死んでも父親が愛していたのはアマデだけだったようにしか見えなくない!?そういう話なの!?なんだかんだでヴォルフは死んだらアマデから解放され1人の人間になれる、もしくはアマデと融合できるのだと思っていたのに。
カーテンコールの影を逃れてメドレーも泣きながら聞いていたのですけど、ここでもパパのマイクを使って歌い出しを歌うアマデちゃん。いや、本編で歌わないアマデちゃんの美声にはとっても癒されたのだけど、ニコニコのパパとアマデのツーショットから始まるカテコに結構胸を抉られてしまいましたよ…。ヴォルフとアマデの2人だったら素直に微笑ましく思えたのだろうけど…。なんかヴォルフが最後までひとりぼっちだったように思えてしまって…。なんて容赦ない演出なんだ…。
ということでこれまで何度も何度も観てきたM!という作品なのに、今回はかつてないほどメンタルにダメージを負ってしまいましたね…。こんなにしんどい話だったとは…。これはウンテさんの素晴らしい歌唱と演技によって私がこれまで気付けていなかった脚本の本質が浮き彫りになっているのか、今年が意図的にそういう演出になっているのか、気になるところです。韓国語が理解できればいいのに。
久しぶりに上質な芝居を浴びて、演出や役の解釈についてああでもないこうでもないとどっぷり浸かって考える時間が本当に本当に幸せで、私はこの瞬間のために生きているんだなあと思い出しました。お芝居を観るのが久しぶりすぎて忘れかけてた。本当に楽しい企画をありがとうございました。字幕付きのライブ配信、これからも開催してもらえると嬉しいな。もちろん、再び劇場で観られる日も待ち続けています。