松竹ブロードウェイシネマにて「インディセント」を鑑賞したので感想。※毎度のことながら結末までのネタバレも含みます。
「インディセント(原題:Indecent=不適切な、わいせつな)」は2015年に上演された音楽劇。松竹はミュージカルと書いているけどトニー賞でもミュージカルではなく演劇部門でのノミネート、受賞だったので、どちらかというとNTLで上映している方がしっくりくるような作品だった。舞台上で楽器の演奏や歌唱シーンはあるけど、ミュージカルのように心情を歌うような場面はない。
「ポーランドのユダヤ人作家が書いた戯曲『復讐の神』が同性愛を扱っているということでブロードウェイで物議を醸し、裁判で上演中止の判決を受ける、その顛末を描いた作品」というあらすじから、昔のアメリカにおけるLGBTQの戦いを描いた作品なのかな、なんて予想していたら…予想を大きく裏切られた。イディッシュ文学と性的マイノリティへの賛歌であり、1900年代のユダヤ人の悲しい歴史と演劇のもつ力とそれを信じた人々の情熱の話だった。
いやーー素晴らしい戯曲と演出だった。こんな緻密で詩的な脚本があるのかと震えた。さすがピューリッツァー賞。

舞台の始まり方が非常に印象的。全ての役を演じ分ける役者たちと演奏者たちが開演前から舞台上に一列に座っている。語り手であるレムルの声で立ち上がると、役者たちの腕から砂のようなものがざあっと落ちる。舞台の最後まで見るとこれは灰であること、この冒頭は「我ら息絶えしものども(エリザ)」なのだ、とわかる。役者が舞台で生き返り、物語を語るために役を演じるのだ。
特徴的な舞台上には常に画面があり、字幕が効果的に使用される。この演出がとにかく上手い。役者たちの演技はベースは英語だが、母国語であるイディッシュ語、役によってはドイツ語なども使うので、その翻訳だけでなく、例えば「現在はイディッシュ語の会話」「現在は英語での会話」といった注釈が表示されるのだ。ユダヤ人の劇団員たちはイディッシュ語で会話している際は流暢な英語で、英語の会話の際は語彙力が下がり若干たどたどしい英語になる。この字幕演出と役者の演じ分けが見事なのもあって、観客はいろんな言語が混ざり合う芝居を違和感なく楽しむことができる。
物語は「復讐の神」が生まれた場面から始まる。ポーランドに住むユダヤ人作家アッシュが書いた戯曲を妻が「世界中で上演すべきだ」と絶賛する。しかしユダヤ人作家の会に作品を持ち込み読み合わせをする段になると、男性作家たちはこれが女性同士の恋愛を描いていること、舞台が売春宿であることに気づき、「とんでもない作品だ」「これは反ユダヤだと叩かれるに違いない」と否定した。しかし全員が作品の魅力に惹きつけられていることは明らかだった。偶然その場に居合わせた仕立て屋のレムルは完全に作品の虜になり、門外漢の演劇の世界に飛び込むことになる。
ポーランドでの上演は諦めたアッシュだが、作品はドイツを皮切りにヨーロッパ各都市で興行し次々に成功を収める。アッシュはアメリカに移住し、レムルも呼び寄せて現地で公演をする。ついにブロードウェイでも上演できるという段になり、より多くの人の目に触れることを配慮して脚本を変更することになる。実はアメリカのユダヤ人社会から反ユダヤ的であると忌避され、脅迫が絶えなかったのだった。(前後にアメリカに移住してユダヤのアイデンティティを失う人々の描写もあり、アメリカにおけるユダヤ人社会の立ち位置というものが伺える)ブロードウェイ用の新たな脚本は女性同士の恋愛シーンが削られていたり、キャラクターに大きな変更があったりでレムルはじめ劇団員たちは強い拒否感を示した。特に重要なシーンである「雨の中のダンス」が省略されていることに納得できないまま作品を上演したところ、不適切な(インディセント)作品を上演しているということで控えていた警察に劇団員たちは逮捕される。
皮肉にも脚本の変更によって「作品が不適切ではない」との証言が難しくなってしまい(新脚本verを観劇した人間が存在しないため)、劇団員たちは有罪の判決を受け、アメリカでの上演を禁止されてしまう。ここで私は「ヨーロッパでヒットするような作品がアメリカではNGってことがあるんだ、意外だな〜」と感じた。なんとなくアメリカの方が早くから自由にひらけていて、ヨーロッパの方が保守的というイメージがあったので。なお「復讐の神」はブロードウェイで初めて女性同士のキスシーンが演じられた作品らしい。
レムルは戯曲の作者であるアッシュが自分達を守ろうとしてくれなかったことに失望し、責める。当時アッシュはユダヤ人団体の一員としてヨーロッパのポグロムを視察し、そこで見た虐殺の様子がトラウマとなって精神を病んでいた。また自身が英語が苦手であることから証言台に立つ勇気がなかったのだ、と話す。レムルは英語の話し方を笑われるような国のどこが自由なんだ、と憤り、アッシュとの友情もここで終わりだと告げて故郷に帰る。アッシュは祖国の状況を知っているので止めるが、劇団員たちもアメリカにいる以上は仕事ができないためみんな帰国してヨーロッパでの興行を続けることになる。
アッシュが祖国で同胞が迫害されている様子を目の当たりにしたことで、アメリカの生活は何もリアルに感じられない、と「所詮は作り物」である演劇への情熱を完全に失ってしまうのはわからなくもない、が、劇団員があんなに必死に守ろうとしている作品の親としてもうちょっと責任持ってほしいというか、せめて虐殺の話はもっと周りにした方がいいのではないか…。
劇団員たちがヨーロッパに帰ってからは予想していた通りの展開が待っている。アッシュに届いていた手紙は途絶え、彼らの公演は徐々に制限されていく。レムルへの手紙が宛先不明で戻ってきてしまうようになった頃、役者たちが並んでポケットに手を入れた瞬間、「イエローバッヂをつけるのだろうな」とわかった。ユダヤ人への迫害は加速し、ついにはゲットーの屋根裏部屋で、門限のため3幕の芝居を週ごとに1幕ずつ上演する、という形でしか上演できなくなる。チケットなんてものはない。役者も病気で交代している。それでも彼らは上演を続ける。
この、ゲットーの埃だらけの屋根裏部屋での上演にて、「復讐の神」で最高の名シーンと繰り返し言われている「雨のダンス」が演じられ、我々観客はここで初めてこのシーンを通しで見ることになる。

「復讐の神」で娼館の主人の一人娘・リフケレと娼婦マンケが父親に隠れて雨の中でダンスをし、思いを確かめ合うシーン。劇中の二人が社会の規範から解き放たれて心のままに踊り、愛し合う場面を、命の終わりの近づくゲットーでの上演シーンとして見せることで、彼らが限界にあっても演劇を続けた意味、危険を冒してもこれを観にくる人々がいる理由が、語られなくてもひしひしと伝わってくる。
劇中ではここまでにも稽古や上演中の場面などで「復讐の神」のさまざまなシーンを断片的に見せているが、最後まで見るとこのタイミングがどれも見事だったことに気づく。なるほどこの場面にはこのシーンの引用が相応しかった、とわかる構造で、もう一度頭から見たら違うことに気付けそう。
屋根裏の場面で終わりでもおかしくないと感じるカタルシスだったのだけど、物語は続く。上演中にナチスに踏み込まれ、彼らはそのまま強制収容所に移送される。収容所の長い長い列に並びながら(数年前、胸弾ませてアメリカに到着した時も移民局の「長い長い列」の場面があり、その対比も辛い)レムルは夢想する。列から軽やかに逃げていくリフケレとマンケの姿を。レムルが目を開けると現実の世界で、冒頭と同様に役者たちの服からは砂がこぼれ落ち、灰になる。ここで観客は開幕の演出の意味に気付くのだ。ここも、どんなに過酷な状況にあっても人は夢を見ることができる、という切なさと希望と現実の残酷さを感じる名場面だった。
戦後、アメリカを離れることになった老年のアッシュの元に「復讐の神」の再演をしたいという若者がやってくる。それを断り、「私は600万の観客を失った」と言うアッシュが部屋を出てふと振り返ると、レムルの亡霊があらわれ、二人の目の前でまた「雨のダンス」のシーンが再現される。今度は雨の演出つきで、イディッシュ語で。ここは字幕もないのだが、我々にはもう完全にこの場面の会話がわかる。このラストシーンが素晴らしい。ここに行き着くためのこれまでの英語の「雨のダンス」で、字幕演出だったのかー、と唸らされた。
劇中劇として途切れ途切れでの鑑賞ではあるものの、「復讐の神」という作品自体の持つ力というのが不思議で面白くて、実際のところあの時代のユダヤ人がイディッシュ語で書いた文学がなぜ売春宿が舞台で、レズビアンの話なんだろう?というのは興味深い。リフケレの父親が売春宿を経営している一方で、非常に信心深く大金を叩いて教典を手に入れたり娘をラビと結婚させようとしている、というのはものすごい皮肉だし示唆的で、そりゃユダヤ人社会で叩かれるだろうなとは思うんだけど、「欠点もある生身の人間を描いてこその文学」ということなのかな。じっさいリフケレとマンケの雨のダンスには胸を打たれたし、二人の心の自由さはあらゆる悪環境にあって希望となり、観客と演者を救っていた。二人の関係も性愛だけではなく、母娘や姉妹のようなお互いを庇護する愛も包括しているように見えた。だからこそBW版の改悪でマンケがリフケレをただ誘惑して娼婦に堕とした悪女として描かれていることに劇団員が怒るのも尤もだ、と思う。表現の自由と検閲、原作者の手を離れた作品の改悪などなどここも考えるところがあったな。
レムルが「この作品に出会って人生が変わった」と何度も言っていて、たしかに最初は「これって台本なんですか?」と言いながら読み合わせに立ち会っただけの仕立て屋が気付けば劇団員になり、裏方スタッフから最後は舞台監督にまでなって、いわば作品と心中するような最期を選んでいた。屋根裏部屋で生き生きとト書きを説明する姿は情熱に燃えて輝いていて、「復讐の神」は原作者よりもうレムルが繋いでいたんだな、と感じた。ある意味この作品のせいで人生を狂わされた人も多いのだろうけど、演劇ってそういうパワーがあるよなあ、、と、自分も観客の立場から改めて「なぜ私は芝居を見るのか」みたいなことを考える作品でした。
役者さんもみんなすごかったけど、楽器演奏者もめっちゃ演技しててびっくりした。よくあんなばりばり演奏しながら踊って歌ってキスしたりできるな。どうやってこんなキャストたち集めたんだろう。これがブロードウェイの層の厚さよ。
あとあと、この作品を上映してくれたことはとってもありがたいのですが、松竹の公式SNSの宣伝文句がトンチンカンすぎて、「ほんまに観たんか??」と思うようなのばかりで(芸術戦士ってなに?!人生はカラフルでいいってなに?!どこから出てきた?!)作品の魅力は何も伝わっていないし芝居好きへの広告としてはもはや逆効果だと思うので見直していただきたい〜〜。上映時間が限定的でスケジュール難しいけど次回のタイタニックも見るぞ!!